2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『異なる考えを持つ人と一緒にする』 牧師コーナー(763)
17世紀のドイツの教育学者メルデニウスは「本質的なことには一致を、非本質的なことには自由を、そしてすべてのことには愛を!」という有名な言葉を残しました。私たちは時々、互いの違いを理解し、受け入れようとするよりも、異なる考えを持つ人に対して、敵意や憎しみを煽り、追い詰めようとする極端な人がいます。このような人は、どこに行っても争いと戦いを好む特徴があるように思います。自分と異なる考えを持つ人を批判することはとても簡単でしょう。しかし、決して批判だけで問題を解決することはできません。むしろ溝がさらに深まって、対立や衝突がより激しくなることを知るべきです。
どのようにしたらキリスト者として、自分と異なる考えを持つ人々やその主張に対して正しい判断力を持ち、相手を受け入れて包み込むことができるでしょうか?また、このような両極端の対立の中で、どうすれば互いに結びつき、和解できるでしょうか?
もちろん、嘘を真実として偽り、期限付きの終末論を唱えて教会と時代を混乱させる異端者たちと手を組むことは決してできません。しかし、次の三つを信じるキリスト者であれば、主にあって一つの兄弟姉妹として受け入れ、共に連帯していくべきだと思います。
「聖書が創造主である神のみことばであると信じているか?」、「永遠のいのちなるイエス・キリストが唯一の救い主であり、全世界を治める方であると信じているか?」、そして「三位一体の神を信じているか?、つまり共同体となる神を信じているか?」という三つの問いです。これらの真実を聖書通りに信じているのであれば、私たちキリスト者同士の中に異なる姿や思いがあるとしても、ありのままに受け入れ、互いを大切にする訓練をして、聖霊さまによる一致を守るべきだと思います。
上記の三つの本質的な事柄に一致していれば、それ以外のことについては相手を非難するより、自分とは違う人を理解しようと努め、受け入れる姿勢を育てていくべきだと思います。例えば、「洗礼を受けるべきか?浸礼を受けるべきか?」、「礼拝の際に賛美歌だけを歌うべきか?ワーシップソングを歌うべきか?」、「祈る時には声を出して祈るべきか?それとも静かに祈るべきか?」などのことです。
これらの非本質的な事柄については、教会の益と信徒の必要や状況に合わせて行えば良いでしょう。たとえ自分と異なるとしても、「主において兄弟姉妹」であることを忘れず、互いを理解して受け入れ、連帯して共に協力していくべきだと思います。すべての牧場で、異なる考えを持つ人と共に成熟できることを祈ります。
どのようにしたらキリスト者として、自分と異なる考えを持つ人々やその主張に対して正しい判断力を持ち、相手を受け入れて包み込むことができるでしょうか?また、このような両極端の対立の中で、どうすれば互いに結びつき、和解できるでしょうか?
もちろん、嘘を真実として偽り、期限付きの終末論を唱えて教会と時代を混乱させる異端者たちと手を組むことは決してできません。しかし、次の三つを信じるキリスト者であれば、主にあって一つの兄弟姉妹として受け入れ、共に連帯していくべきだと思います。
「聖書が創造主である神のみことばであると信じているか?」、「永遠のいのちなるイエス・キリストが唯一の救い主であり、全世界を治める方であると信じているか?」、そして「三位一体の神を信じているか?、つまり共同体となる神を信じているか?」という三つの問いです。これらの真実を聖書通りに信じているのであれば、私たちキリスト者同士の中に異なる姿や思いがあるとしても、ありのままに受け入れ、互いを大切にする訓練をして、聖霊さまによる一致を守るべきだと思います。
上記の三つの本質的な事柄に一致していれば、それ以外のことについては相手を非難するより、自分とは違う人を理解しようと努め、受け入れる姿勢を育てていくべきだと思います。例えば、「洗礼を受けるべきか?浸礼を受けるべきか?」、「礼拝の際に賛美歌だけを歌うべきか?ワーシップソングを歌うべきか?」、「祈る時には声を出して祈るべきか?それとも静かに祈るべきか?」などのことです。
これらの非本質的な事柄については、教会の益と信徒の必要や状況に合わせて行えば良いでしょう。たとえ自分と異なるとしても、「主において兄弟姉妹」であることを忘れず、互いを理解して受け入れ、連帯して共に協力していくべきだと思います。すべての牧場で、異なる考えを持つ人と共に成熟できることを祈ります。
趙 南洙師